子どものころに、和道流の空手を習っていました。
帯の色が変わるたび、新しい形を覚えるたびに、嬉しさが込み上げてきて。まぁ、それは分かり易くニヤついていたと思います。40になった自分が、見えもしない11、12才の自分の姿を遠くから眺めてみたつもりになると、「ホント、大ばかだなー」なんて言いながら笑ってしまいそうです。
空手は対戦型の組み手ではなくて、形の方が好きだった覚えがあるのですが、形の名前はクーシャンクー、セイシャン、チントウ…などなど。確かそんな感じ。
この名前はカッコイイとか、変だしカッコ悪いと思っている名前を形始めに叫ぶの恥ずかしいだとか、子どもながらいろいろ葛藤しながらやってましたね。
初めの一年は、私の母親も「こりゃダメだ」なんて思うほどの惨劇だったみたいです。けれど一年経つ頃には、なかなか様に成ってきたという話を、十数年前に聞いたような気がします。小学生のぶきっちょが、唯一これは好きかもと思って頑張っていたようです。
さて、形というのは何の為にあるのか。
子どもの私は、ただポーズを決めているだけで何のこっちゃわからないわと思っていました。
が、ある時、空手の先生に一つの動作について意味を教わりました。
正面から来た正拳突きを自分の腕で跳ね上げて、相手の拳を躱す動作です。先生の拳を腕にガッツリくらいにいくためのポーズだと勘違いしていた私は、うまく動けずに「馬鹿もの」と頭をはたかれた覚えがあります笑。
そんなこんなで、ようやく、
(あぁなんだ、これは自分の右腕で相手の拳を跳ね上げる動きなんだな…)
なんて、自分のやっていることを理解して。そうすると、全体の動きにも一つ一つ意味があることをやんわり心得る。
黒帯に近づけば近づくほど、昇段すればするほど、難易度の高い、そして美しい形を教えていただきました。お稽古終わりには大きいお姉さんたちの実演を見せていただき、憧れを抱いていたことが思い出されます。そのうちに、私もその晴れ舞台に立たせていただいたりして、三年ほどすったもんだしながら、中学入学と同時に辞めました。
本当にどうしようもない子どもで、空手を辞めるときも何だか後味が悪かったことだけは、大人になってからも影のある思い出のままでした。
けれど、ここにきてちゃんと思い出してみると、まぁ、悪いことばかりでもなかった。そう思えるのは、その時代の経験を今こそ本質的に活かせるという実感があるからです。
形には意味がある。
空手の何を知っているわけでもありませんが、これだけは間違いないと思います。
礼に始まり、形を繰り出し、礼に終わるまで、その動作全てには意味があったんですね。
そして、今に至って、私は着付け教室を開講しているというわけですが。
私の教室でご指導申し上げている着付けの手順は、空手と同じく、一つの決まった型として覚えていただきたいと思っています。
手順は形であり、形という一定の流れの中に、着物と身体を結びつけていく意味ーロジックーがあります。
手を留め置く場所、姿勢、紐を持つ位置。一つ一つ詰めた理由があって、それ以上でもそれ以下でもない動きをナビゲーション通り再現していただく。そうすることで、いい塩梅に力が抜け、着物にも自分にも負担がかかりすぎない状態を着姿でいつしか体現できると思います。
どんな方法でも、どんな着姿でも、自分が着て嬉しくなってしまえばOKです。
それは間違いない。
けれど、せっかく着付け教室に通っていただくのでしたら、講師のナビゲーションを一度そのまま飲み込んでみていただきたいと思います。
ただ何となくその辺やこの辺に手があればいい、というのではなく。絶え間なく手を動かし続けるのではなく。
一動作と次の動作の間には、動かないという瞬間があります。その瞬間が実は大事だったりもします。
武道、華道、茶道などと同じように。
着付けだって「道」になり得るのではないかと、そう考えながら、着付け以外の世界も勉強しながら、私自身ずっと模索しています。
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