岡山市の成人式が行われるはずだった昨日、5月16日。
昨今の逼迫した状況下で成人式は中止ですが、世の中の19歳が20歳になることをおあずけにはできず。
数名のお嬢様に、お洋服から振袖へとお召し替えなさる為のお手伝いをさせていただきました。お着物をお召しになったお嬢様方やそのご家族様におかれましては、当日に至るまで迷いもあったのではないかとお察しします。何はともあれ、おめでとうございます。どなた様も立派に大きくおなりで、お母様に代わってお着付けさせて頂きました。
新成人のお祝いは本来、お身内の祝いとしてカウントされるようなプライベートな御祝いごとと私は考えています。
お母様のお腹の中にいる時の安産祈願から始まって、無事出産となるとその子が1歳を迎えるまでの間、麻柄の産着を着せるお祝いや名付け祝い、初宮参り、百日祝い等、折々で成長を愛で寿ぎます。
続いて、3歳で髪置、5歳で袴着、7歳で帯解の祝い。
12歳で十三参り。
そして、20歳で晴れて成人の儀。
ここでおひらきする訳でもなく、忘れた頃に赤いちゃんちゃんこ。そして、その後もまだまだ続く…。
最近では20歳のちょうど半分、10歳の成長を祝うハーフ成人式なるものもお見かけします。
いずれのお祝いごとも、本来はその子その人の家族とともにあって、お身内は安堵の内に微笑ましく彼らの晴れ姿を見守るのですよね。
さて、20歳という節目の年。
『社会人としての決意と感謝を表明する』ことが新成人の儀の『意義』と思えばこそ、このコロナ時代の新成人方はその意義に逃れようもなく立ち返る機会を与えられたのではないかな?と、私はそう思います。
成人式に出席できなくても。
お友達同士で賑やかに過ごすことはできなくても。
(昨日のお嬢様方が会合していないと私は信じていますよ、ええ。)
社会人としての第一歩を踏み出す瞬間を1番近しい人に披露する。
たとえ上っ面でも、恥ずかしくても、
「ここまで育ててくれて、ありがとう。」
「いっそう励みます。」と、
「おめでとう。」
「これからも元気でがんばってほしい。」と、
そんな感謝と決意に言祝ぎを交わす、家族だけのあらたまったひとときが、有事の副産物のようにして与えられたわけです。
しかし実はそれがいっちゃん大事じゃないかな、と思っている。私。
何事もなく過ぎ去っていた時代に何重にも膨れ上がった様々な当たり前を、コロナ時代が悉く打ち砕き、削ぎ落としています。それまで当たり前と思っていたことが絶対的に当たり前なのかどうか。それをもう一度考えましょうと、この時代に促されているようにも感じます。当然を当然として突き通すのではなく、本当に大事にしたいことだけを当たり前にして、あとは手放すことも良しとするような思考の断捨離期に、誰もが差し掛かっているのではないかな。
等身大以上にデカデカと膨れ上がった凸凹の球体を、鉋をかけて削ったり、鑢で磨いたりしながら、ビー玉サイズに煌めく核心部を見つけにいくように。私の中でここだけを大事にしていたら、その他の当たり前だったことは手放しても案外平気、結構快適。どうなの?これ絶対に要るの?と問いかけて整理することが、この有事の時代を心平穏に過ごす手立てのように近頃は考えています。
必要なことやものは、そう多くはない。
私にもこれこそが私の核心と感じていることがありますが、その核心に両足をつけて降り立ったところから外を見てみると、世界はとても単純で穏やかなんですよね。
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