残暑の自由研究と題しまして、8月中頭の中で渦巻いていた『吉弥結び』について発表いたします。長編の予感がします。どうぞお付き合いいただけますように。
『吉弥結び』
まずは、その歴史からサラッと。
吉弥結びは時代をせっせと遡ってみると、必ず行き当たる人物がいます。江戸時代初期の上方文化に名を残した上村吉弥(うえむらきちや)氏ですね。歌舞伎役者の女形で、彼が結んだ帯結びを吉弥結びと称したのが始まりのようです。是非は到底判りませんが、上村吉弥自身も何がしかの結び(玉章結)を模したのではという一説ありつつ。
には、江戸後期に吉弥結びと呼ばれていた形が図録されています。
コレ↓
一見、立て矢の雰囲気すらありますね。手順を紐解くと、おそらく今の吉弥結びと同じように手先を下にしてから結んでいると推察されます。
上村吉弥が結んだとされる初代吉弥結びは、実はこの形ではないようです。
初代吉弥結びは、幅広の一丈二尺帯を結び、鉛をつけて垂らすような形状であったと記されています。
見返り美人図の帯結びが初代吉弥結びを模したもの、と記されている書籍もありますが、その実像はモヤっとした印象。
昭和31年発行「図説日本風俗史」には、初代吉弥結びが図録されてます。アリさん程度の極小図だったので、夜な夜な拡大して模写ですよ。
コレ↓
どうも判然としないな…。
しかしまぁ、こういった具合に。
吉弥結びの起こりをサラッとおさらいするだけでも解るのは、現代よく認知されている吉弥結びとは形がかけ離れていることです。
〈鉛〉
〈垂らす〉
など、まず共通点が見当たらない。令和に生きる私たちの頭に思い描く吉弥結びは、おそらくコレ↓でしょう。
ネットサーフィンによって雑な統計を試みた結果と、「帯結びのアレンジ」(大竹恵理子先生著)を参考にしてみても、やはり令和時代の吉弥結びは写真の結びで相違なさそう。
ちなみに、現在私たちが普段、吉弥結びとか、貝の口とか、矢の字結びなどと言いつつ、その形と信じて結んでいる帯結びは、時代、研究者、着付けの先生によって名付け方が若干違うようです。極少なくも所有している古書や雑誌を初版発行年代順に並べ、先の三種の結びを解説していた書籍のみピックアップし、夜な夜な記録してみました。
ザザン↓
貝の口は比較的変化なしですが、吉弥結びと矢の字結びが千鳥足。
と、云うことで、ですね。
吉弥結びは、現代においても、なにかこうフワッとしていて正解が無いように思うのです。
吉弥結びが生まれてからの四百年にわたる歴史の中で、名前だけが普遍的。けれども、そのフォルムは、人や時代によって認識がちょっと違ってます。定まりきっていない感じでしょうか。
皆さんの中にも、小さな疑問ってありませんでしたでしょうか。私はあったのです。
「吉弥結びって、矢の字って、どっちがどっちなんだろな。」
「どの結びが本当の吉弥結びですかと問われたら。はてさて。」
のような歯切れの悪さ。
答えは、「あなたが思うものが正解ですよ。」で充分と思いますが、私が着付け教室として正解をお伝えするならば、やはり今のところはコレです↓
加えて、このたび。
正解がないのならば、私、松田が生徒様にお伝えする吉弥結びの正解をとことん突き詰めて作ってしまいまひょ。という結論に至っております。
【まつださえこ着物着付け教室】が生徒様にお教えする吉弥結び。その形と正解とは。
次回、吉弥結びを展開図にしながら、形の方程式を探った痛々しい痕跡を皆様にご披露申し上げます。動画もご用意致しました。
つ・づ・く。
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